2014/09/02

何も残らなかった8月を振り返る

八月が終わって、九月になっていた。
何もしていないわけじゃないけれど、 何も残らなかった、八月。

盆の時分、仕事帰りに自転車を漕ぎながら、東の空の劇的に美しい満月を見上げて、私は生まれてくる時代を間違えた、と思った。月を遮る街が邪魔。電灯が、車が、建物が邪魔。
あの月の”情報”を、昔の人はダイレクトに受けとっていたと思うと、昔の人たちが心底羨ましかった。

最近、心の底から笑えることが無い。 腹筋がヒクヒクするほど20分くらい腹抱えて笑えるようなことが、かなり長いこと無いような気がする。
なにがしかの強い感情、というのも今は無く、ろくでもないニュースばかり、泡のように浮かんで消えて流れ去る。何も新しいことはなく、聞いたようなことが大声で語られる。

昔の人が見上げた、あの奇麗な月のような、”本当の情報”を受けとることができる人に、私はなりたい。その思いは、何も残らなかった八月ではあったが、せめて残しておきたい。


心にゆとりが無くなるから、ブログに仕事のことなんざ書くまいよ、と思ったら、書くネタがあまり無くなった。ということは、それだけ私の時間もゆとりも、社会様のための薄給の賃労働に奪われているということである。なんというもったいない人生。

ヒステリーでバブル脳の年増というのは、どこの職場にもいる手合だが、今の職場にもこれがいて、これの前で、一切の気配を消して空気のように通り過ぎる方法を、先頃、私は真剣に思案した。そのせいかしばらくの間、「認知の歪み」という言葉が、頭にこびりついていた。
人を責めない、自分を責めない、という状態がいちばん「認知の歪み」が少ないかコントロールできている状態だろう。
私は、何かを「責める」ということを、自分のすべきことの中から放棄することで、この問題を片付けようとしている。「心で人を責めないですむ方法を考案する」というのは、本年度の私の抱負でもあることだし。(


そして、八月に郵送されてきた国民健康保険料の請求を見て、まるで市役所に「死になさい」と言われているような気分になった。

やっぱり、私はどこかちょっぴり「死んだら自由になれる」と思っている。 しかし、死ねば肉体の束縛から放たれるだけで、肉体から均衡と調和を学びとっていなければ、死後の自由を確実に持て余すとも思うのだ。まぁ、これらはイージーな人生の人には、何言っているのかわからん話ではある。

金が無いので、まだまだ休日も家に引きこもって過ごすことになりそうだ。今の楽しみは、冬の上着を一着丁寧に仕上げることと、 少しお金に余裕ができたら、近場の島を巡ること。

島といえば、明後日は父の命日だ。もう五年になるのか。(
父の骨を散骨した海域は、今いる場所からそう遠くない()のだが、もうちょっと余裕ができるまでは、自宅で線香を供える程度だろう。
というか、私が命日を思い出したというだけで、父としては充分だと思っているかもしれん。

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