2014/08/03

「生まれてきてごめんなさい」(つづき)

相手の欠点や弱点を、これでもか、というほど叩きのめして、自分の欠点や弱点は、一切認めない、絶対に自分は悪くない、自分が正義だ、という、そういう人が「ふつうの人」の中に、ちょこちょこ紛れている。どうしてそんなことができるのかというと、そういう人は、人の話に耳を貸さない。これは「最強」の人である。

素直に人の話に耳を傾けてしまったり、何か問題が勃発すると、周りを責めるより先に、うっかり自分に落ち度が無かったかを点検して反省してしまう、私などには、この「最強」の人は、まったく理解が及ばないのである。

「最強」の人は、相手の言い分には一切耳を貸さない。相手の言い分を理解する気がないから、聞いても話をねじ曲げる。つまり、お話にならない。そして「最強」の人は、自分に分が悪いことは忘れて、一見、そう悪くない人に見える。
「最強」の人は、本当にタチが悪いのである。

これ実は、アメリカのことでも中国のことでもイスラエルのことでもなくて、この「最強」の人とは、私の母親のことである。(ついでに、この母親の精神を正統に継承した、最強の姉もいる。)亡父の散骨後、この母らと連絡を絶つことができたのは、幸いだった。父の享年は六十九歳だから、父もこの母に寿命を奪われたといえる部分は大きいかもしれない。しかし、父が悪くなかったかというと、そうでもなくて、母をあれほどまでに「最強」にしてしまったのは、思いやりに欠ける父の何気ない言葉だったものだから、私はどちらの肩を持つでもない。

あの、憎しみに満ちた「ふつう」の家庭に生まれた運命を呪いつつ、狂いつつ育ったおかげで、妙なかたちでの地政学と国際理解ができてしまうのは、ある意味、私は武器を手に入れたに等しい。 


しかし、あの「ふつう」の家庭を逃れた後も、よく似た「最強」の人がついてまわる。
あの修羅の家に生まれたことを後悔しなくて済む、自分の生を肯定できる、そんな存在だと信じた伴侶ですら、「最強」の人なのである。

もういいよ。生まれてきてごめんなさい。もう私死ぬから、それでいいでしょ。生まれなかったことにすれば、それでいいでしょ。

そうして私は、野垂れ死ぬのを待ちながら、路頭に迷うのであるが、本当に、何故生まれてきてしまったのだろう。絶望に打ちひしがれ、己の存在を問う度に、生まれてきた意味を知るまでは死ぬまいと決めて、踏ん張ってきた。その意味がわかったと思ったら、今度はその意味が失われる。生まれてきた意味を失ったままで、路頭に迷いつつ、今度は、何によって踏ん張ればいいのか。私の人生、失われるばかりで、なんら得るものがない、私は本当に無意味で、虚無的な存在なのか。

そう問いつつ、虚無になりつつある時に、その絶望感を、一端脇に置いて、歴史の本などを読んだりしていると、古来から今に至るまでの歴史の中にいたであろう、大勢の私のような人、つまり、寄る辺のない浮き草のような憐憫な人々の幸せを願った、これまた大勢の名もなき人々の思いが、永遠の虚空に満ちていることを、思い起こすのである。

私はキチガイなので、こういった思いを受けとるのは、得意なのである。

この私のような者に寄り添い、無垢な幸福の願いを捧げた、彼らこそ真の癒し手(ヒーラー)であった。
おかげで、私はその思いによって、自分の存在の意味を得ることができる。
私も、彼らと同じ思いを、永遠の虚空に放つことができる。私と同じように、途方もない絶望に憑かれた誰かを、癒す力になれる。
これほどまでに絶望的な世の中では、その思いを持つことができる人が、ひとりでも多いに越したことはない。

「生まれてきてごめんなさい」という状況にある人が、そこから脱出できますように。

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