2014/08/02

「生まれてきてごめんなさい」

「ウンコをするな」。
それは、最も酷い暴力のひとつである。
恐らく、そのDVのために離婚したカップルも、結構あるのではないかと思われる。

我が家でもしばしば、この世の終りかと思われるほどのケンカが繰り広げられるが、家にトイレがひとつしかなく、しかも出勤時間が同じくらい、となると、朝、ウンコを二人同時にもよおすことがあり、百年の恋も覚めるほどの冷淡な思いやりの無さが、二人同時に育まれることになる。つまり、

「ウンコをするな、お前がガマンしろ」である。

この場合、私が一方的にガマンすることを要請される。

最愛と思った伴侶が、大人で、人間誰しもウンコをするという視点で物事を思慮できる人だと、買いかぶった、私の心の目が節穴だったのだ。所詮彼ですら、オノレのウンコは構わないが、他人のウンコ、特に、女がウンコをすることを許せない、ウンコをする女に存在価値は無いという、幼稚な短絡思考のミソジニー野郎だったのだ。

私は、生まれてくるのではなかった。
何故、私はウンコをするような汚い女、しかも女、に生まれてきてしまったのか。
ウンコをしてはならない、とすると、私は、生まれてきたのが間違いだった、としか思えない。

女として生まれて、幸せな女の人生を生きようと、自分なりの精一杯の努力はしたはずだった。甲斐甲斐しく、最愛の相手を思いやっているつもりだった。
しかし、どんなに頑張っても、結局、私は最愛と決めた相手からですら、「ウンコをするような一緒にいたくない汚い女」でしかなく、そして、

「お前なんかと一緒になるんじゃなかった」

と、私の全てを無に帰す暴言でもって、我が伴侶から傷つけられるのである。

生まれてこなければ、こんな風に傷つくこともなかったのに。生まれてこなければ、私はウンコをするような者ではなかったのに、たかがウンコで、私は傷つき、捨てられ、全てを失い、路頭に迷うのだ。

それでも、私はこれまでから相応に、傷つき、全てを失い、路頭に迷うことを経験している。狂いもし、死のうと思った、死のうとした回数も、図り知れない。もう二度と、こんなことを味わうまいと、襲いかかる破壊と、それに決して屈しない創造を繰り返す中で、腹を括りつつ、より確かな選択肢を選んできたつもりが。

それでも、またしても私はすべてを失うのだ。

あまりにダメージがデカい。
これほどのダメージを受けておきながら、何食わぬ顔で、ふつうの生活を営み、働いていかねばならない。
もう私は死ぬべきだろう、死んでもいいだろう、私が生を受けたことが、そもそもの間違いだった。
親たちだって幼い頃から私にずっと繰り返し、言って聞かせてくれた。

「お前を生んだのが間違いだった」「お前なんか生むんじゃなかった」。…


そうだ、思い出した。

(つづく)

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