2014/07/21

地政学を印象で語る

国際政治だの地政学だのといった言葉をよく耳にするようになったが、相応の肩書きの無い者が、世界の広いことを知ったところで、「イエ」宗教の日本では、単なるキチガイ扱いである。「ありもしないことを夢見ている」とバカにする空気がたちこめている「イエ」の中で、そんな情報に触れることは危険極まりない。

そうでありながら、『地政学入門―外交戦略の政治学』に、一応目を通したのである。
地政学の、これが古典で基礎です、ということらしく、三十年前に初版が出ており、私が手に取ったのは第二十五版であった。

数名のイカれた巨人が、自分がせしめる取り分を競って、蛮行を繰り広げてきた記録から、血のりだけ拭き取ったのが地政学、という印象である。何分にも、「雑やな」という印象が残る。
「自分のやることは”大きなこと”だから、”小さなこと”は取るに足らない」という正義に突き動かされて、細部を取り逃して、”大きなこと”をやったツケが、ゆくゆくはこういう人たちに返るだろう。

さしずめ私は、あの巨人どもを上手に避けながら生き抜く、妖精(妖怪)さんのようなもので、巨人を避けなければならない、その戦略の一環に、地政学というものがある、という情報ぐらいは、「イエ」の中にいても知っておいて損はない。



遊牧民から見た世界史』は、『地政学入門』に触れる前に読んだ。こちらの方が情報として新しく、西洋史主導の『地政学入門』では細部に切り込めなかった、(ハートランドの抑止の可能性を秘めた)リムランドの細部に踏み込んでいる。内容は濃い。


私が高校生の頃、ベルリンの壁が倒れた。
私の教科書の地図帳には、ソ連という国があった。
ソ連以降の地図がどうなったのかは、自分から見ようと思わなければ、知ることができない。
ソ連後に地図に登場した、数多の「〜スタン」。私の年齢で、あの「〜スタン」を全部言える人というのは、割に少ないのではないか。

読んでいると、草原と荒野と砂漠とオアシスに、バタバタと遊牧騎馬民族が行き交い、丁寧に読むと、西洋史に押されてなかなか見えてこなかったユーラシアの歴史が、かなり細かく理解できる。かなり細かく理解できるが、丁寧に読む間もなく、ひととおり目を通したところ、やはり広大な大陸を、猛烈な砂埃を立てながら、バタバタと遊牧騎馬民族等が行き交っているな、という印象が残る。

何しろ、中華の古代史は、漢字が難しくて読みづらい。難解な読み方の名前が出てくると、どうせ残虐な暴君かヘタレの王様だろうと先入観で、適当に流し読みして、結局、誰が誰だかわからない。
大きな仕事で歴史に名前を刻んでも、こうやって忘れ去られていくのだろうと思う。

忘れ去られるのは仕方ないとして、読み終えて心に銘記されるのは、やはり、バタバタと遊牧騎馬民族が行き交う大陸の風景と、何より、タイトルにもなっている「遊牧民から見た世界史」観で、実はこの世界史観は、集団的自衛権うんたらという、昨今の歴史のうねりの中の日本を考える時、ひじょうに重要な視点なのだろうと、自ずと直感する。



しかし、身近な地政学ということを考えると、冒頭のイカれた巨人が取り逃しかねない細部の情報に秀でているのが、地元ヤクザだったりするんだろう。看板を掛け替えただけのヤクザが、真っ当なことをしているつもりの優良企業だったり、ブルジョア大企業と提携していたりというのは、ありがちなことだ。

家の近くには瀬戸内海が広がっており、たくさんの無人島があるらしいが、ああいったところに産廃や核廃棄物を、こっそり捨てる「優良企業」なんぞが無いとは思わないので、そのあたりの危機管理が、「イエ」のムードの中に浸りきった人たちにできるとは、到底思えない。
どこにいても、危険だらけである。

さて、死んでも狂っても、私は国際的分業の原則に反して生きていくのだ、と思う。

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