2014/06/28

『北朝鮮強制収容所に生まれて』を観た

ようやく、初めての給料が出るので、映画でも観ようじゃないか。

しかし、イオンシネマみたいな生ぬるいもんに、金が払えるか、ということで、「高松にもミニシアター系の映画館はないのか」と、介護事業所の所長に訊くと、「ソレイユ」という、うっかり通り過ぎてしまいそうな、マニアックな映画館を教えてくれた。
現在50代半ばの所長の若かりし頃からある映画館らしく、「僕も昔はよく行った」と。最近は『アクト・オブ・キリング』や『北朝鮮強制収容所に生まれて』なんぞを上映している。

『アクト・オブ・キリング』にしようか、『北朝鮮強制収容所に生まれて』にしようか、時間の都合で、後者を観ることにした。映画館の切符のモギリの若いバイト君が、「え、観るの?」といった雰囲気を醸し出していたが、お構いなしである。

レディースデーに、映画館は私の貸切り状態だ、ウェ〜イwww…と思ったら、もう一人、女性が来た。お前、誰だよ、こんな映画、女が一人で観るもんじゃねぇだろ。向こうは向こうで「一人で占有できると思ったら先客がいやがった、チッ」とか、思っていたかもしれん。

月並みな映画の感想はさておき、私の印象に残ったのは。

「鏡に映った自分の身体を見た時、怒りがこみ上げる」

という、北朝鮮強制収容所からのサバイバーであるシン氏の言葉。
収容所で受けた拷問で、手足が曲がってしまったシン氏は、韓国で暮らしはじめて、シャワーを浴びる時に、鏡に映った身体に刻みつけられた、拷問の痕跡対峙せざるをえないらしい。

他者への侵害は、本当に、よろしくない。他者への侵害、という私の日常的な言葉に置き換えてしまうが、他者とこれほどの関わりかたを、決してしてはならない。私は、加害者になるくらいなら、死ぬ。

「仕方がなかった」と、加害者は言う。そうして人々は加害者に共感し、同調し、加害者を赦し、皆が加害者側にまわると思われるが、私は、加害者がその後背負うものの重さを考えると、それは冗談ではない。
被害に遭わずに加害者になることを避ける、というのは、生きる道としては至難の技だが、まぁ、軽い被害に遭って、加害者にならずに済む道を選ぶ、という程度か。

そして、シン氏は収容所の鉄条網を超えて、初めて見た祖国を、「自由で、この世の楽園だと思った」などと話していた。
ただ、その楽園の幸福は、収容所に今なおいる、12万の自由を奪われた人々の労働によって成り立っているのではないのか、と思ったのだが、何しろ、嫌なシステムである。

そしてこのシステムは、「どうせ死ぬ人たちだから」ってんで、搾り取るもん搾り取って、はいサヨナラ、という、現在の日本の経済のシステムとも似ている。黙りこくった大勢の加害者の同調圧力で成り立った、嫌な国のシステムである。

ふと、『夜と霧』のV.E.フランクルの言葉、「人間は楽しみのために生きているのではない」を思い出す。
言葉端だけ拾うと酷い印象を受ける言葉だが、真意がわかると、そうでもないし、そのとおりだと思うのだが。



あと、シン氏の支援者と思われる人で、シン氏の語る情景を、同時に絵にしていく人がいて、この人の絵がやたら巧い。相当、頭良さそうだった。

渡米したシン氏が、LINKというNGOの集まりの中で、その陽気過ぎるテンションに戸惑っている、あの感じ、すごくわかる。あのご陽気さ(あるいは痛さ)の中に放り込まれたら、私でもついていけないと思う。戸惑うシン氏を見て、がんばれ、と思った。

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