2014/04/05

吉原を見ておこう

「もうすぐ桜が咲きますね」てな話を、ついこないだしていたところだったのに、ふと見ると、すでに葉桜になっていた。激しい雨風が一昼夜続いた後、やはり、といった感。

引っ越す前にぜひに、と吉原に詣でてきた。
都内のお坊さんがボランティアでガイドをしてくれるツアーだったのだが、好天に恵まれたものの、少々肌寒い日だった。
小塚原の刑場跡の首切地蔵、遊女の投げ込み寺(浄閑寺)、吉原観音と、歴史を紐解くとエグいスポットばかりだが、辺りはふつうにマンションや家屋が立ち並び、線路が敷かれ、何ら当時の面影を残していない。

小塚原の刑場は、 ”罪・磔(はりつけ)・獄門などの刑罰が執り行われるだけではなく、刑死者や行倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われた…云々” ”杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版…云々” ということで、ひじょうに血生臭い史跡である。

実は、何となく、せっかくだから吉原を見ておこう、というつもりで参加したツアーだったので、まさかそこにまで寄ることは、あまり考えていなかった。

これ↑が首切地蔵さん。

この日撮った写真は、ほとんど逆光で、アングルはいいのに像が真っ黒。

まぁ私自身、自己病名を「本態性低血圧永遠の十四歳イタコ症候群便秘症」()と自称するだけあって、若い時分はそれなりの霊感少女で苦労しているのである。やはり、と言っちゃあ何だが、このお地蔵さんを撮ると、「あちらの方」が「写って」らっしゃった。正直、デジカメでもこんなにキレイに写るのか、と驚いた。驚いたが、見た人が気持ち悪かろうと、そのデータは消して、ここに載せてあるのは、「あちらの方」が写っていない方の、ふつうの写真。

ツアーでの注意事項に、「人は撮るな」という約束があったのに、入り込んできやがって、まったく、こんなとこにまで出てくんな、である。

そして次が、遊女の投げ込み寺(浄閑寺)の、遊女たちの納骨堂。

葬り方は廓流の畜生道におとすやり方であった。楼主たちは治らぬ者として、干殺しまたは責め殺しにし、そのような遊女の遺体は、手足を四つにしばって獣葬にした。死者は獣なりと自己暗示をかけ、祟りを避ける方法であった。

「身心労れて煩を生じ、または瘡毒にて身体崩れ、下品なる売女に売り遺すことも出来かね、干殺し同様のことになり、また首をくくり井戸へ身を投げ、あるいは咽を突き、下を噛みなどして、変死するものあり。その変死も御法の如く検死を受くるもあり、多くは押し隠し、投げ込みを乞うて、寺の惚墓という所へ埋まるなり。まれには沐浴場、葬穴場に臨んで、蘇生することありという。全死体すべき命数にあらざるを、非情に責め殺し、また干殺し同様のことにて、いまだ死に果てざるに、早く死したるに極めしものゆえ、万が一息をふき返すなり」(

しかし、次の吉原観音もそうだが、それなりに思いを持って訪れる人々のために、現在、彼らは決して忘れ去られない人々となっているように思う。



吉原では町内会のお祭りをやっていた。翌日は花魁道中をやるのだとか。
『たけくらべ』()にも冒頭から出てくる「見返り柳い」「お歯黒溝」などを、学生さんに案内してもらった。

町内会の人が、吉原観音の説明をしていたので、観音さんの奥にある弁天さんと鯉のいる池の奥の、赤いお不動さんが、両目を閉じているのはなぜ?と訊いてみた。
お不動さんというのは、ふつうは片目を閉じているものである。すると、

「意味はない。ワシが色を塗った」

とのこと。
何かすごい物語を期待したのだが、そういうことだそうな。
しかし、いわゆる昔ながらの人情風情が、そこはかと残る、吉原界隈であった。それを大切にしたいという、そこに暮らす人々の思いがあった。


死者に対する敬意とは、今を生きて出会う人びとに対して払う敬意と、基本的に変わらんものと思うのである。
いつまでも、彼らを「不幸な死者」のままでいさせてはならない。それこそ、死者に対して失礼、というものかもしれない。

死者にとって、痛み、苦しみの時間は過ぎ去ったこと。
いつ何時、彼らを襲った死が、自分にも訪れるか、訪れないか、それはわからないが、過剰に、ヒステリックに、死を畏れ過ぎて、とんでもないことになってしまう、そんな時代は過ぎ去らせてしまいたいものである。
慰霊は、とりもなおさず、死者以上に、己への慰めなのかもしれない。
もしも輪廻転生があるならば、もしかすると、今私が「死者」と呼ぶ彼らこそ、前の世の私自身だったかもしれない。
終りの無い永遠の物語の、「終わった」とされるその先の彼らの時間を、今、私は共に生きているのかもしれない。とすると、彼らとて決して「終わって」はいないのだと思う。

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