2014/03/12

「人を傷つける言葉」は「言っちゃダメ」「使っちゃダメ」と盲信する人びと

使ってはいけない言葉、というのがよくわからない。「言っちゃダメ」「それは人を傷つける言葉」というやつ。

笑いのツボは人それぞれ違うが、傷つくツボも人それぞれで、言葉自体が悪いのではなく、文脈や、言葉が発せられる思いの方に傷つく人もいる、とは思うのだが、なぜか言葉や単語が責められている。
「アホ」「バカ」「ボケ」「ウンコ」「キチガイ」「老人」「病人」「死人」「部落」…。
「ノータリン」も「知恵遅れ」も、文脈次第で陽転させることができる、にも関わらず。

多くの場合、人は知らなかった、知らされなかった事実や真実に傷つくのだと思う。「本当のことを言ってはいけない」のである。ただ、私などは、それは嘘だと思う者で、「本当のこと」を言うか言わないか、なんてのは個々の判断に委ねられている。

「人を傷つける言葉」は「言っちゃダメ」「使っちゃダメ」という考えも、あってもいいのだが、「言っちゃダメ」「使っちゃダメ」と言う人びとによって、「悪意」がふいに仕立て上げられる場面を、よく難儀だと感じる。
それで、「言っちゃダメ」「使っちゃダメ」について、私はまだ腑に落ちる説明を受けたことがない。そこで「人権」だの「命」だのを引き合いに出されると、もうわけがわからない。

「人を傷つける言葉」は「言っちゃダメ」「使っちゃダメ」と信じる人びとに、

”「人を傷つける言葉」は「言っちゃダメ」「使っちゃダメ」と盲信する人びと”

と言った場合、当人たちが傷つくとすれば、どこで傷つくだろう。「盲信」ではなかろうか。それは、「盲」の字が悪いのか。「盲信」ととられかねない態度に問題はないのか。なぜ「信じる」が「盲信」になるのか。「信じる」ことは、別に悪いことではないのではないか。
「本当のことを言ってはいけない」状態で、知らなかった、知らされなかった事実や真実に対して「盲」ということの怖ろしさを、未だ知らないのではないか。

傷つく、ということは、自分と出会うこと、自分自身を知ることでもある。同時に、傷つけた者をも知ることになる。

「あなたはキチガイで頭がいいから、高度な理解ができるけれど、そうでない人びとが大勢いて、そこまでの理解が及ばなくて、危険だから、使ってはいけないとしなければならないのだ」

という説明を受けたなら、ようやく6割ほど腑に落ちる。
残りの4割は、「言っちゃダメ」「使っちゃダメ」という、人の思考を奪う言葉の暴力が、更なる誤解を生む点に、結局は納得していないのである。

「言っちゃダメ」「使っちゃダメ」という人に、人を傷つけている自覚は、あるだろうか。その単語を発した人の人格を、過去を、存在を、「言っちゃダメ」の一言の暴力で無化しているのだ、という自覚はあるだろうか。
とりあえず、「人を傷つける言葉」は「言っちゃダメ」「使っちゃダメ」と言う側の人には、その自覚を伴っていてほしい。


「キチガイ」に関しては、私自身がキチガイと呼ばれること()には、さしたる問題はない。発症からの幾年月で、キチガイであるプライドが育まれてしまったこと、 これは仕方がないだろう。正直な話、皆が丁寧に言葉を選んで「気違い」とか「精神障害」などの言葉を選んで使う方が、実はむしろ傷つく。「狂人」と言われると、私はそこまで凄くないので、何か違うし、誤解しているな、と思う。「ボトムアップされた精神病の」というのが妥当なのだが、アカの他人にはそこまで説明する機会も無いだろうから、結局、何と言われようが、少々の傷は、もう気にならないレベル。

人生塞翁が馬である。昔の人が言っているのだから、これは間違いない。
私が思うに、程度にもよるが、傷つくことも傷つけることも、悪いことではない。
そんなこともわからない大人たちが、大勢いることの方が、よほど悪いと思う。

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