2014/02/09

『病気の社会史―文明に探る病因』



世界の終末というのは、今にはじまったことではなく、歴史の中では、割と何度も終末が訪れているらしい。

その時、信仰も道徳も廃れ、人心は荒廃し、わが身の保身のみに突き動かされ、狂乱し、そうした衝撃で、”ふるい因習がわけもなく崩壊し、人間の精神にこれまでにない新しいなにかが生まれ…” るらしい。正に、アセンションですな。

病気の社会史―文明に探る病因』では、ギリシア・ローマの疫病からはじまって、中世のハンセン病・ペスト、近世の痘瘡・梅毒、近代のチフス・コレラ・結核、そして現代ガンや心臓病・精神病・公害病…と。
長きにわたる戦争を終結させたのが疫病であったとか、大きな疫病を抑圧したのが更なる大きな疫病だったとか、忘れた頃に押し寄せてくる疫病のパンデミックを、人類はいかにして超えて、ここまでやってきているのか、そして現状はどんなカンジか、ということの大局を、様々な歴史的文献を紐解きながら、知ることができる、わかりやすく、興味深い一冊である。

引用される文献は、ソポクレス『オイディプス王』、ツキュディデス『戦史』、ボッカチオ『デカメロン』(ペスト)、ヴォルテール『カンディート』(梅毒)、エンゲルス(結核)…等々。

戦争や貧困が病気の温床であることは論ずるまでもない。衣食住のありかたは病気の生態を規定する。食卓のメニューはそのまま病気のカタログにあてはまるし、衣服のファッション、暖房・照明などの住生活のスタイルが時代の病歴(カルテ)を書きかえていく。ひとつの文明ひとつの社会は、それ特有の病気の構造と生態をもつ。
病気は文明がつくり、また病気は文明をつくっていく。
一個の文明、一個の社会は、それ自体の悪疫をもつ。そしておそらくは、その悪疫は、その文明の変革、その社会の改革によってのみ撃退されるであろう。

日本では、日露戦争をひとつやったほどの人命が、コレラで奪われたそうだが、”富国強兵に盲進する日本では、人命軽視の衛生行政の弊風はそのごも一向にあらたまらなかった” とある。
ひとたび流行がしずまると、政府はコレラ問題を忘れ、予算を出ししぶり、せっかくみのりかけた地方衛生組織をつぶしてしまう。これはいつに皇室費や軍備拡張費の増額で財源が奪われてしまったからである。
(政府は)伝染病の負担は地方財政におしつけ、軍備の拡張・宮殿の造営・条約改正の交渉に狂奔し、そして鹿鳴館の舞踏会にうつつを抜かしていたのである。

何か、既視感のようなものを感じる話。

医師の力では、まったく太刀打ちできない文明の病というのは、今にはじまったことではないということも、この本を読むと得心がいく。
ところで先日、こんなニュースを見た。



…実は私、なんとなくそれは察していたんだ。
初診で医院の外来に行くと、問診表を書かされるが、私の場合、そこの既往歴に「統合失調症」()と書くと、必ず医師が混乱するので、書かないことにしている。医師だからといって、見識があるわけでも理解があるわけでもないのである。それを言ってもいいのは、精神科・神経科ぐらいだろう。
ここまで心配りのできる、私は何と患者力のあるいい患者であろうか、と自画自賛である。

というわけで、私が何度かしばしばブログにしたためている「医療を信用していない」旨が、どういうことかというのは、こういうことでもある。
だからといって、「信頼できる医療を目指せ」とも、私は思わんのである。
医療とて所詮、人間のやることである。

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