2014/01/30

『コサック: 1852年のコーカサス物語』

もうすぐソチ五輪だというので、トルストイの『コサック: 1852年のコーカサス物語』を読んだ。トルストイがまだ若かりし頃に書いた、カフカスが舞台の物語。
その頃のトルストイは、まだ真理に目覚めて生きる前らしく、物語もカフカスの雰囲気は伝わるが、女、女、女のいる風景が多い。時代を超えて、情景描写の細部から、19世紀のカフカスの雰囲気を味わう楽しみはあるが、そもそも私は、他人のホレたハレた話はしんどい性質で、ヤンキー的な男女関係のもつれ合った話の筋は、正直、どうでもいい感。



トルストイは、別に、女性に恵まれなかったわけでなないようだが、「こいつ、女わかってない」という女性の描き方をする()、と私には感じられる。トルストイの時代はそういう時代だったんだろう。女性への興味は人一倍のようだが、その女性との距離が遠い。自分は男で、女性のことは表面上しかわからないから、女性の内面までは描かない、と礼儀正しい紳士の態度を、あえて意識していたのだろうか。
そう思いつつ読み進めて、この「こいつ、女わかってない」感が、けっこうな物語のミソになっていたりする。

しかし、文豪トルストイの作品なだけに、魂を潤す刺激は、ちゃんと盛り込まれている。

何不自由なく生きてきたブルジョア貴族の二十四歳の若き主人公オレーニンは、「自己犠牲こそ真の幸福」という思い込みを滅せず、モスクワでのブルジョア暮らしに、「これは本当の幸せじゃない」と、嫌気がさして、頭パッパラパーの状態で辺境のカフカスに赴任してくる。
頭パッパラパーといっても、本人は教養ある優れた者のつもりなのである。
それがカフカスの大自然と共に暮らす「野蛮人」との暮らしの中で、彼は自分自身の真実と対峙して、「自己犠牲」という幸福にすがりついて傲慢に得々とするおのれを捨てきれないまでも、次第にひと皮剥けていく。

私は、その様子を読みすすめながら、権威でもって真の幸福を「自己犠牲」だと説教した昔の司祭だか坊さんのために、広い意味で世の中は道を誤った、とふつふつと思わされた。

この物語に登場するエローシカ爺さんは、晩年のトルストイを彷彿とさせる老賢人で、彼の語る人生観には、ひじょうにシンパシーを感じる。エローシカ爺さんの人生哲学は、私が今目指そうとしているものに非常に近い。エローシカ爺さんのいう「世界の掟」は、うちのダンナのそれと同じ類のものだ。
以前、心身ともにくたびれ果てたうちのダンナが、ボソっとこう言った。

「森に、熊がいて、そこにいた人を、爪立てて襲うとか、それは、ふつうだろ…」(

エローシカ爺さんは、こう語っている。
(うちらの坊さんに)おまえは不浄のまじわりを断たねばいかん、なんていまでも言われるがなあ。兵隊と飲むな、タタール人と飯を食うなって。でもタタール人の坊さんや裁判官の言うことを聞いてみろよ。『おまえらは不信心者だ、異教徒だ、なぜ豚を食べるのだ?』なんぞとぬかす。つまりはどいつもそれぞれの掟を守っているんでな。だがおれの考えじゃ、ぜんぶ同じことだ。なにもかも神様が、人間を喜ばせるためにお創りになったんだ。罪なことなんかなんにもねえ。獣がいいお手本だよ。あいつら、タタール人の葦原でも、おれらの葦原でも暮らしてる。行きついたところがわが家さ。神様がくだすったものを食うのさ。ところがおれたちときたら、そんなことじゃ地獄に堕ちるぞなんて言うんだからな。おれが思うに、ぜんぶただのでたらめなんだよ。

真実の掟から排除されて、信頼するに足らない、でたらめの掟にはめ込まれたこの暮らしから逃れたい、それは私もパッパラパーのオレーニンと同じ。



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