2014/01/17

卑怯者と言われて

命の重みに耐えられない、命の軽い時代に私は生きている。そうでないと、”数”をこなせない。
それというのも、命の本当の重みを知らない。不必要に重々しく命を取扱い、そうかといえば要所はぞんざいに扱ったりする。
どれほど命を無駄にしても、それが習慣になっている限り、命の本当の重みなど知らされない。余程自ら心を澄まさなければ、それは知ることなどできない。そういうシステムの上で、私たちは暮らさせられている。

このシステムと、私を、いかに乖離していくかは、重要な私自身のテーマである。



生来から、打算的に物事を考えるのが苦手な種類の人がいる。どちらかというと、私がそうだ。打算的に生きようとすると、隙ができて、足元を掬われやすくなる。そして、駆け引きで損を引き受けさせられる、足して割っていくタイプ。
生きていくのに、駆け引きの能力は必要だというので、苦手で好ましくないにも関わらず、駆け引きに付き合わされるのに、正直、私は迷惑しているのである。

先頃も、依存症の人々の集いに顔を出し、「敗北」のお題で、個々の「敗北」についての思いを吐き出し合った時、私の番がきて、私は自分で何を喋っているのかよくわからない、「敗北」と無関係のオチに辿り着いて、もの凄く気持ち悪かった。思えば、そのこと自体が敗北。
そうして、私の後で喋った人の中に、「敗北っていっても、勝つ気が無いから、ピンとこない」と言っている人がいて、私は、それだ!と思った。

「競争」は苦手で、勝ちに向かってくる奴に、とっとと勝利を手渡して場を去るばかりの、私は筋金入りの根性無しである。というか、競争なんかしなくても、ちゃんと私がひとり勝ちできる場のようなものが、ちょこちょこあった。それを言えば嫌な感じしか与えないから言わない、というのもまた、嫌な感じで。

そんな私は昔から、生家の母や姉から「卑怯だ!」となじられたものだが、今尚、私のなにが卑怯なのか、わからない。打算と勝ち負けの価値観を土俵にしている人たちからすると、私は「卑怯者」になるらしい。正直さが裏目に出て、「打算と勝ち負けの土俵で負けても悔しくも何ともない」という私の思惑がバレてしまい、まるで人を小馬鹿にしているように見えるから、私はその土俵で真剣な人々を逆上させるのかと思う。

私を「卑怯者」呼ばわりする人と付き合い続けても、私は「卑怯者」でしかないので、そこから距離を置くと、リアルな人間関係の相当数が削ぎおとされる、これも人の世の不思議である。

そうして、「卑怯者」にしかなれない土俵からは遠ざかって、ひとり遊びをする子どものように、私は常々、新しい土俵を描こうとする。その作業は、それこそ賽の河原で石を積むようなものではあるが、しかし思えば、私が何としても勝たねばならない究極の敵こそ、冒頭の、命の重みを知らせない暮らしの基盤のシステムであり、私は、そこからいかに乖離していくか、であるなら、闘志を燃やせるのである。

そう考えると、私は決して、勝つ気が無いわけでもないし、本来の土俵を降りたこともない。
敗北に打ちひしがれる日が来るかどうかは、いざ知らず、負ける気がしない、というのも正直なところで。

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