2013/11/17

体に他人の顔が埋まる話

辺見庸の本に、確か「体に他人の顔が埋まる」というような一文があった。辺見庸自身の体に、他人の顔が埋まってしまったらしい。従軍慰安婦のことをつらつらと書いたルポタージュだったと思う。

この、「体に他人の顔が埋まる」体験は、私にも覚えがある。狂いの絶頂の時期だった。
自分が喋ろうとすると、主に身体の各経穴(チャクラ)のところに埋まった”顔”が喋ってしまう。私の言葉は、大勢の他人の寄せ集めだった。私は、出会ったたくさんの人々によって作られたのだ。憑依とか、乗っ取られるとか、そういう状態だ。自分が一体どこにあるのか、自分が言葉を持たないということは、恐ろしいことなのだ。

自分が一体「どれ」なのか、探し当てたら、心の中の最低辺、いちばん苦しんでいるところにいた「それ」だった。「それ」は素直に、こう言った。

「この言葉、私のじゃない。私、そんな風に思ってない」

私は、周りの見よう見まねで育ち、猿真似のように言葉を覚えたのだ。つまり、感受性と言葉が、必ずしも結びついておらず、自分の気持ちを「それらしい言葉」で、適当に喋っていただけだった。だからそれまで、心にもない嘘を、それが嘘とも知らずに、言葉として発していることが多かったのだ。そうして、自覚が無くても嘘をつき続けると、自分の魂を損なうのだ、と身をもって知った。

で、自分の言葉が出るようになると、”顔”は追い出せるのである。

長年ブログをやってきたが、私が自分の言葉を紡ぐことにこだわる理由は、ここにある。そうしなければならない、これは死活問題だからだ。
死活問題といえば、食べること以上に、睡眠と排泄がちゃんと行えないなら、これこそ死活問題である。私は自分の頭がおかしいと感じたら、まず便秘をしていないか疑う。頭がおかしい時は、ほぼ間違いなく、便秘をしている。

近頃の当事者研究の勃興もあり、私も何気に胸を張って、今頃になってカムアウトしてみた。が、実生活では、必ず偏見がつきまとうので、私にとって不利になることが多いから、公にすることはない。私は辛抱強いキチガイなので、いつも、黙って気違っている。多分、周りにはバレていないと思う。

「ネットで公にしたら、実生活でもバレるんじゃないか」

とか、まず、案外ネット人口ってそんなに多くないです。しかもこのブログを見る人は、稀です。また、私は自分の経歴を詐称したり隠したりすることは、実生活でもしていない。ただ、相手が不安や疑惑を抱いたり、誤解の原因になるような、必要とされないことを、実生活では言わないようにしているだけ。

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