2013/09/27

かまってちゃんがギブばかりではなく、テイクできるようになるには

ブログ名を「かまってちゃんにかまってあげるかまわないでちゃんの日々」に変えようか、と思う日々である。
しかしそれをやると、他のいらんことを書きづらくなる。また、かまってあげる日々も、ずっと続ける気は無い。

「痛い」と言えば、「死ぬ」と言えば、誰かかまってくれるんじゃないかと、手を替え品を替え、日々変容する利用者を相手にしつつ、今更ながら、イザヤ・ベンダサン(山本七平)の『日本人とユダヤ人』を、古書で見つけたので手に取った。

ユダヤ人がいかに大声で論じても、だれも、少しも「思いつめて」いないのである。議論とは何十という珍案・愚案を消すためにやるのであって、絶対に、「思いつめた」自案を「死すとも固守」するためでないことは、各人自明のことなのである。

思いつめたからといって、自己の生存も、自己の安全も、自己の希求も確保できない。

思いつめられるということは、また、安穏無事の一つの証拠にちがいあるまい。安穏だからこそ、思いつめている余裕があり、周囲もそれを何とかしてやる余裕があるのであろう。

これだけを鵜呑みすれば、ユダヤ人とは賢いのか意地が悪いのか、さすが、謎めいているよね、といったカンジ。

しかし、いつの困難な場合も、最終的には誰かが何かをしてくれるということは、あまり期待できず、結局は自分でどうにかするしか術が無いとは、私自身よく思うところである。
最近は、思いつめている誰かに対して、何とかしてやる余裕が、周囲にも無いことが多い。特に正解らしい正解も知らないので、できることといえば、適当にかまってあげる、といった程度なのである。
赤子をあやすように、そうした時間稼ぎで、その場をしのいで切り抜けるだけ。
そうした周囲の事情を察することができる、かまってちゃんなら、それほど難儀ではないものの、やはり外に向かってアンテナを上手に張れない不憫な人は、少人数、ましてやひとりではかまいきれない。

本当は、そういうかまってちゃんが、外に向かってアンテナを上手に張る方法がわかれば、それがベストな解決策だと思う。ところが現実は、ベストな路線には、なかなか乗らないことが割とある。
かまってちゃんが、本当に相手を信頼しているのではなく、不信で、相手を試すからだ。

やはりこの世の中は、人も自然も、あらゆるものがギブ&テイクで成り立つようになっていると思う。ギブばかりで、何らテイクする意思が無いなら、世の中との関係性も破綻して、排除されていくのは、ある意味理にかなっている。
何も持たないなら、テイクするのは金や物でなくていいのだ。せめて気配りや気遣い、相手を思いやるだけであっても充分なのだが。

「かまってちゃんがギブばかりではなく、テイクできるようになるには」のお題で、幾通りの案が出せるだろうか。
これは昨今流行りの論理的思考の実践に、もってこいのお題だ。


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