2013/07/14

私の生命倫理

死に近い子どもを持つ裕福な親が、我が子への臓器提供を待ち望んでいた。
自分の臓器を売って家族を養いたいという、貧しい人がいた。
医療ツーリズムが可能な国や地域では、ここのニーズを満たしやすかろう。

互いのニーズが合致し、ステキな商取引が成立するはずなのだが、それを阻む旧来の人々の倫理観を、どうにかしたい。
何のことはない。これまでから、大勢の目の前の死にかけている人々を放置して、「目の前の人が死にかけているのに、放っておけない!」などとのたまう、ダブルスタンダートな現実だったではないか。ただ、その現実から逃げるように目を反らし続けて、認めようとしなかっただけではないか。

これからはやがて、安楽死や自殺幇助も認めようという人々が増え、不妊治療だ代理母だ、ips細胞だ、臓器を他人に提供することもされることも、何ら抵抗の無い世の中が、反面で到来しようとしている。

反面で、というのは、やはりこの流れとは異なる解を保持し続ける人々がい続けるだろうから。私自身が、この反面側の者だ。

前述の流れで納得できるとすれば、「自分の望みを叶えるためなら、他人のいのちであれ生活であれ、何を犠牲にしようとかまわない、この世界の仕組みはそういうものだから、仕方がない」という、世界の受け入れかたができてしまう。私はそことは相容れない。

そういった世界の仕組みは、ある意味、私への暴力なのである。それを前にして、無化してしまわないことが「生きる」ことであり、その意思を発するのが私の「いのち」だろうと確信している。
自分のブログの中では再三繰り返すが、私の人生の憂鬱の原因は、「誰かを犠牲を当然と思う世の中」そのものなのだ。放埒な「欲望」を満たすがために、犠牲への配慮を欠いた自分勝手こそが、人間の成すことであり自由であるとは、私は思わないのである。

では、「自由とは何か」と訊かれた場合、私は、シモーヌ・ヴェイユの"真の自由を規定するのは、願望と充足の関係ではなく、思考と行為の関係である" という説明で、納得している。


はたす行為のいっさいが、めざす目的と目的達成にみあう手段の連鎖とにかかわる先行判断から生ずるとき、その行為者は完全に自由だろう。行為じたいの難易のほどは重要ではない。成功で飾られるか否かさえ重要ではない。…云々。

生きている人間は、なにがあろうとも、頑として揺るがぬ必然に四方から圧迫されつづける。とはいえ、人間は思考する。ゆえに、必然が押しつけてくる外的刺戟に手もなく屈するか、みずから練りあげた必然の内的表象に自身を適合させるか、というふたつの選択肢を有する。ここにこそ隷従と自由の対立がある。

肉体の非理性的な反作用にせよ、他者の思考にせよ、あらゆる仕草が自身の思考以外を源泉とする場合、その人間は完全な奴隷である。…

そんなわけで、「自由とは何か」への回答においては、私はシモーヌ・ヴェイユの完全な奴隷である。

また、自分の臓器を売って家族を養いたいという貧しい人の、本当のニーズは、自分の臓器を売ることではないであろうと推測できる。
なぜ、臓器提供を待ち望む裕福な親のニーズが満たされて、自分の臓器を売って家族を養おうとする貧しい人の方のニーズの方が満たされないのか。そこの現実からは目を背ける生命倫理だけが横行するなどということが、あり得るとしたら、人間というのは本当に、見下げ果てたものである。

人間による不完全な世界。しかし、世界はかつての歴史の中、いつかどこかで、せめて一度二度は「完成」した瞬間があったはず、と私は思っている。
一度揃ったカードをシャッフルするように、技が決まるのがただ一瞬でしかないように、常に完成を求めるために、永遠に繋いでいくために、不完全のままであり続ける、それが神の創造の意図だったかもしれない。
私は、そのかつての瞬間を求めつづけるのであって、「完成させよう」「完全なものを手に入れよう」などという気は無いのである。
それが自分自身を生きることであり、私の「生きる意欲」であって、誰かの肩代わりをしたり、他人の人生を取り替えたりするような「欲望」で、それは決して満たされることはない。
特に意図せず、親の都合で生まれてきてしまったものの、そこで与えられた生を生ききることに、意味にもありがたみにも通じるものがあるのであって、いつまでも生きているふりをし続けるのは、それは既に死んでいるのと同じである。

あらゆる人の人生が「生き様」だと思う。
「生き方」がわかるという傲慢な言い草を、私は理解しないが。

「生きる意欲」があるとは、言い換えれば「死ぬ勇気が無い」のかもしれない。
自殺する人に向かって、よく「死ぬ勇気があるなら、生きることだってできたはず」と言われるが、そうかもしれないが、そうでないかもしれない。
「死ぬ勇気」に直結するだけの短絡さが無いなら、それは「生きる意欲」に繋がるというだけのことかもしれない。

神が完全に欠落したものとしての世界は神そのものである。
善とまったく異なるものとしての必然は善そのものである。
それゆえ不幸におけるあらゆる慰めは愛と真理を遠ざける。
これぞ神秘のなかの神秘である。この神秘にふれるなら安心してよい。

形のくずれてしまった生。そこでは、生きながらえることだけが、ただひとつの執着となる。

…不幸な人たちは、生きている方が死ぬよりも望ましいとは全然思えないときでも、何ものにもまして、生きることが楽しいような気がするのである。(シモーヌ・ヴェイユ)

さらにいえば、長生きをするなら、他人の生気を吸い取るのではなく、生気を与えられる人間でなければ、不幸を撒き散らすだけだ。これまで私が積み重ねた時間の中で、身をもって確信したこと。

何があっても踏ん張れる強い心を持つしかない。
生きるとは、何かとても楽しいことのように勘違いしてしまいがちだが、いのちがあって生きるわけで、いのちとは、その踏ん張りを試される宿命のものと思う。
重力の誘惑のままに地に臥す時まで、重力に逆らい続けるいのちの性を、近頃しみじみと実感するのである。
しかし、踏ん張り続ける動力に、どうしても楽しいことやら嬉しいことが要るので、いかにしてこの動力を確保するのか、この動力の部分は、割りに分かち合いが可能なのだが、時に奪い合うこともあるので、ここで絞らねばならない知恵が要る。

などと考える私の意思が尊重されないことがあるとすれば、それは本当に困ったものだ。


(…私がこういう考えに到るのはなぜか、という説明として、私の根本は葬式仏教の家に生まれ育った無宗教者(日本教?)だが、若い時分に無教会主義のクリスチャンにスウェーデンボリを勧められて読み、思想はその影響をかなり受けた上で、シモーヌ・ヴェイユの影響を受けている、ということを補足しておく。

※関連過去記事
生命倫理における欲望の話(2013年7月1日)
「生きる意欲」と「死ぬ勇気」(2012年4月22日)

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