2013/07/01

生命倫理における欲望の話

東京財団の生命倫理サロンから送られてきたメールに、「どうぞふるってご参加ください」と書いてあった。
なんでも、宗教学者の島田裕巳を招いて、ということらしいので、

『生命と身体を巡る人の欲望追求はどこまで許されるか』

というお題目の討論会を覗きに行った。島田裕巳氏といえば、うちの亡父の散骨()で、氏の主催するNPOのお世話になったはず。

東京財団というのは、CIAの息のかかった組織だなどという噂を、かねがねネット上で散見していたが、今日は関係者がきっぱりと「競艇のアガリで運営している財団です」と言っていた。
CIAの息がかかっているにせよ、正直な話、「対米従属」「アメリカによる日本の支配」と言われるわりに、アメリカは私を支配してくれなかった。貧乏だから、アメリカですら私を爪弾きにするのである。
だからこの度の催しは、こんな私にも「どうぞふるってご参加ください」と言ってくれているので、招かれてありがたく馳せ参じた。

今日の討論の論点は、大きくは2つあり、「先端医療と人の欲望について」と「人の欲望に歯止めは必要か/必要ならそれはどこに求められるか」ということだった。
「ほかの人の臓器をもらってでも長生きしたい」「先端医療は人の欲望に応じるだけでなく、新たな欲望をつくっている」「人の欲望追求に歯止めをかける道徳原理は、人を超えたところ(神や仏の教え、戒め?)にしかありえないのか」…

討論の内容は録音するとかで、見渡すと案外、静かに黙って聴いている人の方が多かった。
「このサロンで話されたことは、どこの誰それがこういうことを言っていた、という形式では公にしないでください」という注意事項もあり、その場にいたのがどこの誰それなのか、島田裕巳氏以外の人の肩書きも何も私は知らないのだが、そういうことで、以下ここにしたためるのは、私個人が感じたことだけである。



総じて、先端医療を「すばらしい」と賞賛する多くの人の裏で、それをドン引きしたり軽蔑したりしている多くの人を捉えきれていない、と感じていた。

そもそも、「いのち」とはどんなものだと理解しているのか、「生きる」とはどういうことだと理解しているのか。そこに共通のすり合わせが「できない」以上、先端医療やハイパー生命工学主義だのトランスヒューマニズムといったものは、主流ではなく、単なるクラスタに過ぎないと、私は思うのだ。
その、単なるクラスタが市場原理で大手を振って、マーケットインと言葉を替えてプロダクトアウトしてしまっているところ、「いのち」が何であるか、「生きる」とはどういうことか、といったことをわかっていない人々が煽られている、というのが現状のような気がする。

情報が「欲望」を煽るが、本来、そんな欲望自体、あっただろうか、ということ。

で、せっかく参加したので、何か言ってやろうと思って、一応、この度のお題目の『生命と身体を巡る人の欲望追求はどこまで許されるか』ということについての話は、
「欲望を追求するにあたって、何を犠牲にしたかまでを同時に問いながらであってほしい」
などと発言しておいたが、私が感じたことを伝えきれなかったような、お通じが悪いようなわだかまりが残った。

話の中で、私がどうにもついていけない、と感じたのは、何度も繰り返して「欲望」という言葉が出てくるので、そこは本当に「欲望」で正しいのか、どうか、と、わけがわからなくなった。

私の中では、必ずしも「生きる意欲」と「欲望」が同じものではないのだ。

その言葉端で引っかかりを感じると、他、何の共通認識も持てないだろうから、常識人ならスルーするところかもしれないが、もしも私なりに生命倫理を論じるとすると、そこを解きほぐして考えていかなければいけないんだろうな、などと思いつつ、話を聴きながら、しばしば話の内容が脳裏に描けず、何を仰りたいんだ、と、断片的に理解できるところしか拾えなかった。

今思えば、「欲望」という言葉を使う、ということは、市場原理を前提としての生命倫理の話だったのだろうか。

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