2013/05/27

『降りていく生き方―「べてるの家」が歩む、もうひとつの道』を読んだ

「べてるの家」の情報を得て()、『降りていく生き方―「べてるの家」が歩む、もうひとつの道』を読んだ。

もしかすると、そう遠くない将来、「実は私、当事者なんですが…」と、関わる社会の中で言える日が来そうな予感がした。
この予感を、ちょっとした希望にして、まだしばらく、だましだましやっていけそうな勇気を与えられた。

私が「当事者である」()ことを人に言わないのは、わざわざ言う必要がない、言うと後々ややこしいなどの理由で、特に隠しているのではないのである。言ったところで、相手に受け止める能力があるか、どうか、ということを気遣いつつ、うまいこと社会性の体裁をどうにかしてきている。
この、「狂っていても黙っていればいい」というような処世術は、割に、なんてことないフツーのオッちゃんなんかが知っていて、若い時分からそれに諭されて、私も見よう見真似でそのようにしてきた感。

と、たまたま私は、世でいう健常者のふりをする術を心得ていただけで、自分が「健常である」と思ったことは、一度もない。そして、それを障害のほかの当事者に言うことも、ない。

若い頃一時、勧められて障害者手帳を取得したことがあったが、利用する機会も無かったので、期限が切れてそのまま申請することなく。
ふたたび申請してもいいのだが、発病時のカルテが今なお病院に保管されているのか、どうか。そういったあたりも、医療だの病院だの薬だのというのは信用できないものだということを、病名が「精神分裂病」から「統合失調症」に変わる以前に、身をもって体験していきているから、そんな私のような者が、医療に近い福祉の現場にいるって、どうよ、という違和感が常にある。

だから、「治さない医療」「当事者研究」ということになると、その違和感は幾分解消される。
精神医療にこういう流れが出てきたことは画期的で、本当にすばらしい。

『降りていく生き方』の中に出てくる「幻聴さん」の事例は、私としては本当に、痛いほどよくわかる事例ばかりである。
ただ、「爆発系」については、私には無かった要素で、ほんとうに色んな人がいるものだと、自分の世界が広がった感。

私自身の「幻聴さん」で、いちばんインパクトがあったのは、「龍の声を聴いた」経験だろうか。
二十代半ばの梅雨入り前の時期、浅草寺にお参りをした後、「それ」は聴こえるようになった。梅雨入り前の雷雨の時、家の窓の外を、ドドドドドッと龍が過ぎ去ったのを見た、そのあとだ。
「龍の声」というと、ドラゴンボールの神龍みたいなのかというと、まったくそんなのではない。「龍の声」の音声は、「幼稚園児の合唱」に似ていた、といえばいいかもしれない。
複数もしくは大勢の幼児が、いっせいに同じ言葉を発する時の音声。
で、「龍の声」が聴こえる前兆には、シャラシャラと鈴の音がする。これも、幼稚園のお遊戯の楽器の鈴みたいな音。しかも、大勢の幼児がいっせいに同じ言葉を発すると、必ずといっていいほど「揃わない」。たとえば、「おはようございます」だったとすると、「せーの」と言ってから、「おは、おはようございます、ます、います…」みたいな聴こえかた。余韻が残るというか、余韻ほどの趣深さも無かったが。
それで、龍はそんな声で、私の日常のあれこれをアドバイスしてくる。鈴の音が近づいてきて、「げん、元気ですかー、ですかー、かー…」「せーの!あれ、あれ、あれはこうやったほうがいいよー、よー、よー…」…♪(鈴の音)…。
これがかなり、うるさいし、鬱陶しい。私は頭痛持ちではないが、「龍の声」の時分は、さすがに頭が痛かった。

最盛期より減ったものの、今もしばしば、私にもさまざまな「幻聴さん」があるが、それについては「霊の声」ということにしてきたが、今後は「幻聴さん」と呼ぶことにしようか。
私が健常者を装うのに難が無かったのは、現実の音声と「幻聴さん」の区別がつけられたためだろう。
発病した十五歳の頃から、何度か再発を繰り返しつつ、それでも医者と薬があまりに信用できないために、生活態度と食習慣を自分で管理、コントロールできるようにした。医者からはあれだけ「途中で薬をやめてはいけない」と言われているのに、薬をやめて、特に問題なく過ごせたのは、この成果だと思う。
まず、何も考えずに作る母親の料理に、手をつけなかった。ヒドイ子どもである。こんなことでは、そりゃあ家庭は崩壊()するだろう。だって、親は医者と薬を信用しきって、臭い物にフタをするように、私を病院に放り込むのだから、私からすればヒドイのは親の方である。

もうひとつ、ダンナに出会ったこと、これがもっとも絶大な効果があった。上の「龍の声」も、ダンナに出会った途端に、ぴたっと止んだ。
居場所のない私に、居場所ができたこと。私を「そのまま」で受け入れてくれる人であったこと。
「おかしくない奴もおかしい」ということを、ダンナも割とよくわかる人であったことは、本当に救われた。
当事者にとっての「べてるの家」の存在の効果は、私にとってのダンナの効果のようなものかもしれない。

だから私は、ダンナが死んでいなくなってしまったらどうなるのか、という危機感を抱えている。

ダンナがある日、白い鷲になって、わっしわっしと、空高く飛び去っていくのである。
ダンナはなぜか、白い鷲である。なぜかアルビノの鷲なのである。
「そうしたら、早く迎えにきてね」
と、一応約束はしてある。頃合いを見計らって、わっしわっしと、猛禽類らしい鋭い爪を立てて、私の襟首を掴んで、ダンナは私を常世へ持ち去ってくれるはず。
それまでの一時、私は、「べてるの家」みたいな趣旨のところで、助けたり助けられたりしながらやっていけたらいいんじゃないの、とダンナと危機への対処方法を話し合った。

「どっちが先に死ぬか、わかんないけど、一応、あっちの世界が大丈夫そうかどうか、ちゃんと確認してから、おたがい迎えにくるようにしような」

ということになっている。



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