2013/05/20

叱られ、叱られの

4ヶ所バイトを掛け持ちしている、そのうちのひとつが服のリフォーム店で、週1~2回、出勤すれば職人に叱られ、叱られの、金にならないバイトである。

以前、職業訓練校()で得た杵柄の縫製の技能を活用して潜り込んだのだが、職業訓練校を修了したごときで、簡単に一朝一夕でモノになる、という仕事でもないから、それが「仕事」と呼べるほどになるまで、叱られるのが私の仕事、というレベル。

仕事一件の金額も、服のデザインやディテールによって違うため、難解でわかりづらく、商品に値段がついているから誰でも見ればわかる、という簡単なものでない。にも関わらず、スーパーのレジ打ちより安い時給で、接客と縫製を同時にこなさなければならない、奥は深いが難しい仕事である。

この仕事が仕事として成立するのは、職人だけであって、そのレベルに到達するまでに、気の遠くなるような時間の積み重ねが要るのだが、簡単に服が手に入る世の中は、縫製工の仕事をナメているので、その縫製工の仕事をナメた、難癖の多いワガママな客をしばしば相手にせねばならない。

物質主義的な享楽指向のワガママなファッショニスタ気取りで、古典落語の『無い物買い』のような、「店いじめ」を楽しみにしている、悪趣味な、客とも呼べない客が「ふつうのお客さま」を装って出入りする。それに遭遇するたびに、何が人を幸せにするのか、人を幸せにしないのは何か、ということを、私は繰り返し学習せざるを得ない。

訪問介護で利用者と関わっていても、思うのは、明らかに、人を幸せにする力がある人というのは、たとえ寝たきりの要介護状態であっても、関わる相手から「いいもの」を引き出すのが上手い。「人徳がある」というのは、こういうことなんだろう、と思う。
逆に、人を幸せにしない人は、関わる相手から「いいもの」を引き出す術を知らないので、身勝手な不当要求を繰り返し、関係性を損なってしまう。
これは、相手に対する「気配り」「配慮」「思いやり」という言葉に集約されるのかもしれない。

それはさて、新入学シーズンも一段落して、学校の制服のリフォームなんかが、今の時期は割と多いようである。
制服のスカートの丈をやたらに短くするのは、自分で勝手にやればいいと思うが、わざわざ金を払って店に持ち込み、自分の娘にビッチな出で立ちをさせる、子どもの言いなりの「甘い親」の多さをうかがわせる。「いい親」のつもりかもしれないが、こういう親も、「気配り」「配慮」「思いやり」が家庭内限定で、社会の中での「気配り」「配慮」「思いやり」が欠如している。学校側も、入学希望者に説明会をやるもんだと思うが、どんな説明をしているのだろう。

制服の本当のシブさ、凄さは、私は縫製の勉強をして、はじめて理解できるようになったが、そもそも、制服にカワイイもへったくれもなく、それ自体がダサいものという認識である。
貧しかったから、制服を買う金も無かった私の母親などは、中学校の制服を「おかあちゃんが作ってくれた」と、それを喜んでいた。自分もこれを着て、人並みに学校に行くことができる、というレベルの喜びかと思うが、そういう、母親の時代と今の時代の落差を考えると、何だか切ない気持ちになる。

しかし、身勝手な振る舞いをよしとする人の影に、風紀の乱れに心を痛める人も、確かにおり。

近頃、学校の制服が本来の使命を損なったことを、学校も制服業界も危惧したのか、容易にスカートの丈をいじれない仕様を採用している学校もあるようで。
それを持ち込まれて、料金が高いだなんだと難癖をつけられる時間に手間取られ、他の作業が滞り、タダ働きの時間が増え、私、可哀想だな。

温故知新~被服についてどういふ問題があるか(2012年7月21日

さて、上の「被服についてどういふ問題があるか」は、観念に憑かれた時代の遺物でありながら、内容自体は吟味すると、特に間違ってもいないようで、かといって大いに間違っているような。
これに添うならば、きっと「制服」などは、他人の欲情を刺戟しない羞恥心のための衣服であったはず。しかし昨今、大政翼賛会の言う服飾の本来の使命は転倒して、 "邪道に陥つた" のか、制服は制服であるがゆえに、ある種の人々の欲情を掻きたてたりする。

服飾の観念は、いつかどこかの時点で、ゲシュタルト崩壊したのだと思う。
そして昨今、衣服を纏う目的が「他人のため」だという人が、一体どれくらいいるだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿