2013/04/09

「自由」と「自分勝手」と

「自由」と「自分勝手」は違う、という。
自由って何か。自分勝手とは何か。

「自由とは何か」と訊かれた場合、私は、シモーヌ・ヴェイユの 真の自由を規定するのは、願望と充足の関係ではなく、思考と行為の関係である。 というのを採用している。私自身は、まだこれを超える「自由とは何か」の回答に出会っていないので。


はたす行為のいっさいが、めざす目的と目的達成にみあう手段の連鎖とにかかわる先行判断から生ずるとき、その行為者は完全に自由だろう。行為じたいの難易のほどは重要ではない。成功で飾られるか否かさえ重要ではない。…云々。
生きている人間は、なにがあろうとも、頑として揺るがぬ必然に四方から圧迫されつづける。とはいえ、人間は思考する。ゆえに、必然が押しつけてくる外的刺戟に手もなく屈するか、みずから練りあげた必然の内的表象に自身を適合させるか、というふたつの選択肢を有する。ここにこそ隷従と自由の対立がある。
肉体の非理性的な反作用にせよ、他者の思考にせよ、あらゆる仕草が自身の思考以外を源泉とする場合、その人間は完全な奴隷である。…

そんなわけで、「自由とは何か」に対する回答においては、私はシモーヌ・ヴェイユの完全な奴隷である。

そして、「自分勝手とは何か」と考えた場合、思考しない人のあらゆる判断が「自分勝手」と呼ばれることになるのではないか、と私は考えたわけである。
なかなか完璧な人間はいないわけで、ふつうに生きているだけで、人に迷惑をかけることもあると思えば、自分勝手の、何が困るだろう。困るとすれば、他人を振り回すワガママな行為だろうか。

これをするとどうなるかと、結果を考えることなく、何か行動を起こして、失敗する人に対して、「自分勝手なことをするな」と説教したくなる気持ちもわかるし、それを間違いだ、とまでは言わないまでも、果たして、「自分勝手なことをするな」という言葉を投げかけるのは、どうなんだろう。それはある意味、「何もするな」に近い意味合いに転じる場合も、無きにしも。

そもそも、「自分勝手でルールを守らない」と説教するのは、全体主義的な発想でなんだかな、と私は感じるのだが、しかし、結果を想起できないからルールに従えない人に対して、「自分勝手なことをするな」と管理・強制されることが、人間の社会を背景として、至る結果であるのはどうしようもないかもしれない。

事を起こすときに結果を想起すれば、自ずとルールに従うようになるはずなんだが、ルールを守れないというのは、結果を想起できないか、ルール自体に欠陥があるかだろう。
結果を想起できないのは、その人自身の欠陥だろうが、欠陥のあるルールを守れとは、人に強制できるものか。

そうして、私のこのような考えこそが「自分勝手な考え」だと、言う人は言うのである。その人たちの「自由」と「自分勝手」の解釈とはどうなっているのかを訊いてみたいものだが、大抵の場合、彼らの解釈は「問答無用」だろうから、多分、お話にならない。

何ら気に留められることのない、他愛のない言葉遊びだと感じる人には、それでしかないだろうが、私にはひじょうに気掛かりなことであった。

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